鴻池郷
2010年 02月 01日
先日、松原の社長にいただいた品。
伊丹市老松酒蔵の鴻池郷です。
伊丹市鴻池(こうのいけ)は清酒発祥の地と言われています。
鴻池は、摂津国猪名川上流にある郷村であり、同じ川沿いの池田・伊丹、さらに武庫川上流の小浜(こはま)・大鹿などの郷とともに、室町時代中期から他所酒を生産し始めていた。日本酒の趨勢として、戦国時代に僧坊酒が衰退すると、これらの酒郷は奈良流の製法を吸収し、当時の日本の酒市場で一挙に台頭してきた。
慶長5年(1600年)鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)が、室町時代からあった段仕込みを改良し、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みとして効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。これはやがて日本国内において、清酒が本格的に一般大衆にも流通するきっかけとなった。
また、これを以て日本の清酒の発祥とみなす立場もあり、伊丹市鴻池には「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑「鴻池稲荷祠碑」(こうのいけいなりしひ)が残っている。江戸時代後期の儒者、中井履軒が寛政12年(1800年)ごろ、大坂へ進出して豪商となっていた鴻池家に依頼された書いた文が刻まれており、戦国時代の武将、山中幸盛の孫(一説には長男)、幸元(新六)を始祖とする鴻池家が、それまでの濁り酒から清酒を作ることに成功した旨が記されている。この碑は平成3年12月、伊丹市が文化財に指定した。
しかし、鴻池家が山中幸盛の子孫だという説は誤りで、幸盛には男子は無く、実子は娘の八重のみ。昭和12年に八重の直系の子孫である山中三郎と鴻池家が、どちらが正統な山中幸盛の直系の子孫か争い裁判となり結果、山中三郎が正統な山中幸盛の直系の子孫であると判決が下った。
鴻池で造られた酒は船で猪名川を下り、大坂湾に出て、菱垣廻船や樽廻船で江戸へ出荷されたわけだが、地元で消費されるよりも圧倒的に江戸に出荷する率が高かった。寛文以降の幕府の厳しい酒造統制、元禄年間の減醸令、また元文3年(1738年)に新酒一番船の江戸入津は15艘までと制限されたことなどにより、鴻池郷の酒造りは次第に衰退し消滅していった。
しかし、すでに財を成し大坂へ進出していた鴻池家は、鴻池という酒郷が衰滅したあとも豪商として諸方面に活躍し、やがて近代以降は財閥となり、平成時代に至るまで三和銀行として綿々と商脈は続いていくことになる。 もちろん鴻池家は、始祖が自分の出自である村「鴻池」を姓として名乗ったことから始まっている。
※上記Wikipediaより抜粋
早く飲みたいところなのですが、来週、あ~ちゃんとイタリアからサルバトーレが来日するので
その時に開けたいので楽しみにとってあります。
社長、ありがとうござました、二人が来た時に浴びるように飲みたいと思いま~す。